違和感と共感と孤独と

今日、Ustreamでライブドローイングをしながら考え事をしてた。

僕にとって一番重要なのはモノや風景や人や物事を“観る”ことで、描くことや立体物をつくることは一体どういう意味を持つのだろうと。ひとはたとえ同じ事象やモノを見ているようでもそのひとの環境や状態などによってじつは全く違うものを観ている。

その“観ているもの”を形にする時、自分の中にあるものをそのまま出していくことは“表現”ということになるのだろうが、ここには自分の感覚に生じた違和感や観念がベタっと張り付くように出てくる。そのままの違和感は多くの人にとって“わからない”ものとして表れる。時に嫌悪感として伝わることもある。本来自分の中の違和感などに折り合いを付けるために形にしているはずが、結果として自分と世間の間の溝を広げてしまうように感じることもあり、悩み、葛藤する。

わかりやすさ”を得るために表現の中に“共感”を持ってもらうための工夫をするのだ。僕の場合は必要以上に部分を細かく描写することがそれにあたるのかもしれない。誰もが見慣れているだろう現実の形に極力似せながらその中に少しの“”を紛れ込ませるために。その“嘘”には前述の違和感や観念が溶け込んでいる。

こんなふうに、孤独な作業の中で何かのバランスをとるように画面や素材に向き合っているのかもしれないな、と考えながら絵を描いていたのです。

今日描いた絵は『手毬菊
こんなことを考えながら描いた絵、何か伝わるものがあるのかなぁ。